2014 11 28
水聲渓谷の秋
幼い頃から育ってきた家の後ろは仁王山が長く屏風のように立っている。 社稷公園側に歩き培花女子高の横道を入ると学校の正門が見える。その中に足を踏み入れると既にして山が始まっているが、小高くなった校内を登る間もなく仁王山がその山肌をあらわす。
鐘路図書館を向いに見ながら長い歴史のある射的場を通っても山であり、公園の中を通っても山に出るし、公園の裏側の柵の向こうの北岳スカイウェイの車道にそって登っても同じ山道につながる。
それが小学校時代から私がたびたび仁王山に登るコースだが、今はすぐ隣でありながらこれまで登ったことのなかった楼上洞の道を選んで登ってみる。
呉世勲前ソウル市長が大望をもってソウルを革新するために心血を傾けたことの一つが、水聲洞渓谷の復元だった。李氏朝鮮時代の有名な画家、謙齋 鄭歚が描いた仁王霽色圖、水聲洞渓谷を復元し、渓谷の水が光化門に流れるようにするというプロジェクトを聞いたとき、清渓川プロジェクトに成功させて大統領選挙に勝利した李明博前大統領のことを思い出した。
それは至難の連続だった。楼上洞の韓屋が過去何十年間音もなく取り払われ、不動産業者が4、5階建ての小さなビラを建てては売り、何よりもその渓谷のちょうど中腹あたりにある朴正熙元大統領の1960年代に庶民のために建てられた初期の高層アパートを取り壊してしまったのは問題だった。
外国では普通丘の上などの展望のよいところは高級住宅街になっている。ビバリーヒルズがそうであり、サンフランシスコの曲がりくねりながら登る丘、シアトルやハワイの丘の麓の富裕な住宅街がそうだ。
高騰し続ける江南の地価につられた面が強いが、市内近くの渓谷の一番よい場所にアパートが建てられてからというものは、高級住宅街が庶民の町に変わってしまった。イスラエルの富裕で緩やかな丘の上の町を眺めながら、妙なことに私は東アジアの果て、わが町の一番よい場所にあるそのアパートのことを思い出した。
彼らを他のところに引っ越させるためには、たくさんの時間と凄まじい費用と努力が必要だった。2012年の渓谷の復興完成を見ずに呉世勲市長は自身の地位を朴元淳市長に明け渡し、新市長はほとんど完成を前にした水聲渓谷の水が光化門の下を流れることだけは防いだ。それが費用節約のためなのか、渓谷の完成後に清渓川のような劇的効果により市民たちが押し寄せ、前市長の人気が上ることを防ごうとするためなのかはわからない。
こうしてソウル市民は、画家謙齋の偉大な作品を実物として見ることのできる仁王山水聲洞渓谷を持つことになり、それとともに西村という町の名前に人気が出始めた。
私もすぐ隣の楼上洞を経て水聲渓谷に通い始め、今ではその景観を眺めにくる人々を見学することも兼ねて、よくこの方向に散歩するようになった。アメリカ時代の友人たちが訪ねてきても、私の本を持参して日本のファンが訪ねてきても、水聲渓谷を案内している。
渓谷に向って歩くと、狭い路地に立ち並ぶ似たり寄ったりの連立住宅は、山と光を遮り美しいとは言えないが、その一階は個性のある店と飲食店が日ごと装いを新たにしていく。
足をだましだまし丘を登りきると、ついに見通しのよい仁王山のチマ岩の頂上が現れ、謙齋の絵に見られる石橋の麒麟橋が、李氏朝鮮時代そのままの姿でそこにある。あちこちに新たに建てられた東屋と松の木、渓谷の水が見え、晩秋のススキが陽をあびて燦爛と輝く抒情的な景色がうそのように広がる。
大都市のど真ん中にこんなにもスケールのある風景が繰り広げられていようとは、実に信じがたいことだ。
長く生きて“用事があるの”が口癖だった祖母の姿が思い出される。同じ場所を守り続けてきた渓谷と山だが、新しい山を歩く気分で歩いてみれば、毎日夕方に射撃場に社稷公園にと散歩していた父のことで胸がいっぱいになる。
あの頃父はこうして歩きながら、何を思っていたのだろうか。
私の前に夢のように繰り広げられる 見慣れたようで新たな全景
春の日ざしに手巻き料理を食べた 家の裏庭が往来に切り取られ 人生がそのように切り取られ 母は止めどもなく涙した
歳月が過ぎ 人生はむなしく過ぎ
いまこうして戻ってきた場所 遥かに大きな山が 両の手を 広げて 切々とした 心に入り込んでくる
ススキが燦爛と光を発し そこで明るく笑いかけている 若き日の父 - 母-
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