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女性朝鮮 インタビュー 李承信

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  • 2013.09.16 10:50
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女性朝鮮 インタビュー 李承信
2012年 2月号


Sunshine Lee 李承信
が伝える生への慰労


暗闇に打ち克つには光を照らさなければならない。
李承信がしてきたことがそれだ。李承信は過去60余年間暗闇の中に埋もれていた韓国

唯一の短歌歌人、孫戸妍を世界に知らせ、2011年には東日本大地震で廃墟と化した

人々の心を詩で慰め、日韓両国に感動を与えている。
詩人、随筆家、TVジャーナリスト、コラムニスト、翻訳家、アートコレクター、複合文

化空間THE SOHO代表、孫戸妍短歌研究所理事長等、数多いその肩書きのうち、李承信を

最もよく表現しているのはその名前だ。

Sunshine Lee

 

 
取材 _ ユ・スルギ記者   写真 _ ユ・チネン 

 


1929年、アメリカ大恐慌の引き金となった黒い火曜日からわずか一週間後のことだ 

った。夫であるロックフェラーⅡ世と周囲の人々は「パンを買うこともままならないこ

の時世に、美術館などとんでもない」と言った。しかし夫人であるアビー・アルドリッ

チ・ロックフェラーとその友人二人は、折りあるごとに収集してきた美術品を集めて美

術館を建てた。 


 

その名はMOMA
今では美術愛好家と観光客の聖地となったニューヨーク近代美術館だ。 

韓国ではIMFが吹荒れ通り過ぎた後の1999年、鐘路区弼雲洞に‘複合芸術空間 THE

SOHO’が誕生した。もともとは築350余年の古家であり、短歌歌人である孫戸妍の人

生が宿る場所だ。建物の前に道路が敷かれ韓屋の大部分が削られてしまった。歌人の長

女である李承信は「韓屋も由緒正しいものだが、歌人の特別な歴史と伝統のある空間な

ので守らなければならない」と食い下がったが反応はなかった。
 
残された空間は李承信が20余年間、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、アムステル

ダム、パリ、ロンドン、ベニス等で集めた美術品を展示するギャラリーを含む芸術空間

となった。

その生前、韓国では知られることのなかった韓国唯一の短歌歌人である孫戸妍の精神を

研究する‘孫戸妍短歌研究所’も建てられた。

「母は自身が日本で短歌歌人として広く認められていることをおくびにも出しませんで

した。私にはいつも「ごはん食べたの」と平凡な言葉をかけていました。日本で最も大

きな出版社である講談社から母の短歌集が6冊出ており、日本の天皇陛下に皇居へ招請

され、青森にはその読者たちによって孫戸妍の歌碑が建てられましたが、実際に歌人が

生涯短歌を詠んだ韓国ではその詩心が知られることはありませんでした。娘である私が

母の価値に気づくのがあまりに遅かったせいでもあります」


短歌の根は韓国の百済 

 

短歌は三十一音節からなる短詩だ。‘五・七・五・七・七’で韻律を合わせる。日本で

は天皇をはじめ全国民が作り詠む国民詩だ。日本人は短歌を‘心の故郷’と呼ぶ。孫戸

妍歌人は日本の植民地時代の末期、最後の王妃であった李方子女史が奨学生として日本

に留学させた。家庭学が専攻だったが、教養として短歌授業を受けることになった。孫

戸妍の師である佐々木信綱は日本のトルストイと呼ばれる古典文学者にして詩聖である

。難しいといって皆ついていけず、一人残った17歳の孫戸妍に彼は「朝鮮の美しさを

書き、作歌を絶対に途中で放棄するな」と教えた。

この短歌には事情がある。1400余年前、唐と同盟した新羅の勢力が韓半島を覆った

時期、敗亡の国百済の王族と貴族たちは日本へと渡った。当時、文字体系も定まってい

なかった日本に文字と詩を伝えたのはこのような百済からの‘渡来人’たちだった。実

際に日本最古の歌集として日本文学史及び生活史研究の貴重な資料として評価されてい

る<万葉集>には百済に起源をおく詩が多数収められている。

「歴史はアイロニーです。百済が滅亡し海を越えた渡来人たちによって伝えられた短歌

が日本の愛する国民詩となり、1400年が過ぎた後に植民地から留学生として日本に

行った学生が、そこで韓国の短歌を学び、再び韓国に帰ってきて韓国にはなくなってし

まったその詩を作り、日本で大家として認められるまでになったのですから。短歌の起

源が韓国であることと、その短歌を生涯作り続けた歌人孫戸妍が韓国にいたことを未だ

に多くの人々は知りません。

私はたとえそれが私の母でなかったとしても、その人を世界に知らせるために今のよう

にあらゆる努力をしたでしょう。娘としてではなく、20余年間言論界に従事してきた

人間の客観的な目でまず見たのです。このような文化的遺産が私たちにあるということ

が、どれほど貴いことかを今や知るべきです」

― 韓国人がなぜ他国の言語で詩を作るのかという周囲の方々の叱咤がありました。か

れらの民族感情を私は十分に理解します。しかし、むしろ古代日本に文化と短歌を伝え

た百済の唯一の後裔として自負心を持って私は生涯短歌を作り続けてきました ―  孫

戸妍歌人の生前のインタビューから


李承信の Multi Talents & Personality 

 

李承信は梨花女子大学英文科を卒業した後、ワシントンジョージタウン大学院にて社会

言語学、ニューヨークシラキュース大学院にてテレビジャーナリズムを専攻した。20

余年間アメリカでワシントン‘アメリカの声’放送とWBN-TV局長を務めた。新聞4紙に

コラムを書き、世界各国の見聞を広め、芸術作品を収集した。
「私が欧米で勉強と仕事をしていた際、アートコレクティングを多少したと言うと大部

分の人はこう言います。“お金持ちなんですね”(笑) ありふれた指輪やネックレス、

時計やアクセサリーや服よりも、小さな美術作品のある部分が私の心を動かしました。

その作品の魂が私を引きつけたとでも言うか。美術コレクティングはお金でするもので

はありません」
このように芸術を愛し見極める目が早くから開いた。

20余年ぶりに帰国した祖国の印象は‘心がとても荒れはて、文化芸術に対する愛も断絶

したかのような感じ’だった。自身が記憶している留学前の韓国、文化が豊かだった時

期の純粋で余裕のあった心の時代を回復させたかった。
切り取られた家を再び建て直しIMFで賃貸が2年近く滞っていた家の敷地に建てた‘複

合芸術空間 THE SOHO’はその心の実現だ。

「今でこそ雰囲気を備えた食事が日常化していますが、わずか15年前はそうではあり

ませんでした。THE SOHOで15年間開発してきた芸術的感覚のレシピが全国に広がっ

たのですから、いい仕事をしたものです(笑)。我が家の350年もたった瓦の上でステ

ーキを焼き、食卓を美しく飾る等、芸術に昇華させました」

THE SOHOでは‘料理も芸術’であり、孫戸妍の短歌をモチーフとして作曲した音楽の初

演があり、楽器演奏、独唱会、スリーテナー、ジャズ、舞踊、ナンタ等が一堂に会する

。バレンタインやプロポーズを控えたカップルのための空間は‘ロマンチックな空間1

位’、‘プロポーズを受けたい空間1位’として常に選ばれもする。ドラマ<わが名は

キム・サムスン>と<コーヒープリンス1号店>の名セリフがある空間もまさにここだ。
 
母である孫戸妍の短歌が娘である李承信の心に届きはじめたのは、孫戸妍が息をひきと

る何年か前のこと。自身の勧めで母とともにその短歌の翻訳をしながらのことだ。

20年前、先にこの世を去った夫に向けて歌人の命が尽きる少し前に作った、
‘팔십 난 아내도 괜찮은지요 / 그대를 만날 날은 다가오는데’
‘あい並びゆく路俄かに狭くなり一列なして君の手離す’
‘空の国何という名の駅に降り君の居所尋ねればよき’
‘悲壮なる旅立ちをせむ空隅々狂い探せば逢えるか君に’

青森の歌碑に刻まれた‘君よ吾が愛の深さを試さむとかりそめに目を閉ぢたまいしや’
等の短歌は日本語で読んでも、韓国語、英語に翻訳しても読む者の心の琴線に触れる。
 
初代特許庁長として大韓民国の特許、発明、知的財産権の開拓者にして弁護士であった

父親李允模博士と歌人孫戸妍のラブストーリーは格別だ。孫戸妍歌人にとって人生最大

の不幸だった1983年の夫の急逝。愛する夫を失った悲しみを美しい短歌に昇華させ

た歌人の<第四無窮花>は、日本列島の心の琴線をふるわせ、その愛の詩篇は孫戸妍文学

の白眉とされる。


詩が溢れ出る

<花だけの春などあろうはずもなし>詩人李承信のこの新刊詩集は詩人の20冊目の著書

だ。随筆集<逆回りの時計>と日本語英語企画翻訳集<野茨の尖りし棘に降る雪は刺され

まいとてそつと積もれり>、<ヘミングウェイ書簡集>等がある。そのうち詩集は4冊だ

。詩の勉強を特にしたことはない。
 
「多くの人々が私が詩を書くと母の才能を継いだと言うのですが、母に詩を習ったこと

はありません。母は私のよく知らない言語で詩を作るので読めるわけもありません。雰

囲気ならありますが。2008年にイスラエル、ヨルダン、トルコ、エジプトに行った

のですが、その時突然詩が溢れ出たのです。シナイ山の上で、ペトラで、イスタンプー

ルで、ピラミッドの前で…チャイコフスキーの言葉にこういうのがあります。音楽が私

をじっとさせておかなかったと。詩が私をじっとさせておきませんでした」

その年の11月22日、歌人孫戸妍の命日であるその日には親子の詩集が出版された。

孫戸妍生前の作品から愛の詩だけを集めて編んだ短歌集<ラブレター>と李承信の詩集<

癒しと悟りの旅路より>の二冊だ。
孫戸妍の詩集も李承信が韓国語に翻訳して作った本であり、李承信詩集も聖地巡礼にて

霊感を受けた詩を李承信が書き留め作った本だ。

突然詩が溢れ出る
絹糸を紡ぐように終わりなく出てくるといった
母の詩がやんでしまった後

<癒しと悟りの旅路より>から
それからは毎年詩が溢れ出て詩集が出た。昨年の春にも詩が堰を切ったように溢れ出た

。3月11日、日本の東北部を襲った大震災に接してだ。

その瞬間、「母にして日本国民が愛する歌人孫戸妍の切実な心情が思い浮かび、母が生

きていたならきっと力強い一行の短歌で日本人を慰めたにちがいないと思った」(<花だ

けの春などあろうはずもなし - 短歌で綴る日本人への手紙> 詩人のことばより)という


 
「必ずしも日本だけを慰めるために書いたというわけではなく、人類の誰もが瀕せざる

をえない災難を哀れむ心がその瞬間詩になりました。瞬く間に250余首の詩篇が生ま

れ、そのうち192編がこの詩集に収められています」

最初から本で出すつもりではなかった。「胸に降りつもる一行の詩句を書き留めた」と

いう。その詩が2011年3月27日、日本の朝日新聞と韓国の日刊紙に同時に載せら

れ、大きな反響を引き起こした。
 
「隣国の災難にこのように悲しみを詠む詩人に私は深く感動し、そのような愛に尊敬の

念をもたざるをえない」 - 中西進 日本万葉集研究の第一人者

「韓国詩人がこのような詩を書くとは、実に感動しました。教科書に載せるべきであり

、日本国民全てに読んでほしいと思う」– 森喜郎元総理

現在詩人の詩集は、韓国でのみ出版されている状態だ。ページの右側には日本語に翻訳

した短歌が載せられている。外国語の詩が日本の短歌に翻訳されたのは世界で初めての

ことであり、三十一音節に合わせる難しい作業を経た。
 
「日本語は少しわかりますが、私が短歌に翻訳することはできません。日本と韓国のた

くさんの方々が手伝ってくれました。詩が紹介されると日本屈指の出版社がいくつか大

きな関心を示しました」

詩が日本で大きな反響を呼び起こしたこともあり、李承信は最近日本を訪問した。その

短歌を読んだ日本人は詩人を抱きしめて涙を流した。李承信の短歌のうち80余首を手

帳に写しとり愛誦するものもいた。力と慰労と心を分け合うということが、ユニバーサ

ルなことであることを今さらながら感じた。


花だけの
春などあろうはずもなし
春の来たらぬ冬もまたなし 

 


昇る陽も
海の青さも様変わり
君なき後に目にするものは 


世が移り
季節が移りて花散れど
夢にも忘れじ君忘れまじ

 

 

 

詩は平和だ

 

2003年、病院で腎臓透析を受けていた孫戸妍歌人のそばに李承信がいた。逝く少し 

前のことだ。母がかわいそうで慰めたい一心で娘はこう言った。

「お母さん、<雪国>を書いた川端康成は日本では誰にも認められなかったのに、フラン

スで翻訳された後にノーベル文学賞までとったんですって。お母さんがノーベル賞をと

るならノーベル文学賞かしら、平和賞かしら」たんなる冗談で笑わそうとして言った言

葉だったのに、母である孫戸妍歌人は針だらけの体を起こしてきちんと座り、しばらく

物思いにふけった後こう言った。

「平和賞だろうね」

小泉元総理は2005年の日韓首脳会談にて“切実な望みが一つ吾れにあり諍いのなき

国と国なれ”という孫戸妍の平和の短歌一首を詠んだ。今、日本では日本人たちが荒れ

果てた土地とその路上で李承信の短歌を覚え、潰えた心を引き締めている。

ある者は言う。「詩が腹のたしになるか」と。しかし、詩は米の飯には絶対に埋めるこ

とのできない心の穴を埋められることがわかった。
 
世界唯一の親子詩人、孫戸妍と李承信。
母は短歌を学んだその日から60余年間、韓国と日本の途切れた心に橋をわたし、娘は

隣人の大きな痛みに詩を振りそそいだ。

天が崩れ落ち、地が消え去ることが単なる比喩ではないことを知り、全人類が衝撃にみ

まわれ、一人でも多く生きていてくれることを切実に願ったあの春の日、ある者は食糧

を、ある者は救援物資を送り、ある者は寄付金を出した。そして詩人李承信は一行の詩

で彼らの傷を包み込んだ。胸の深くに届くその詩の一行が再興の慰めとなると言いなが

ら、日本人たちは感動と感激の涙を流している。

今月2月には日本でも出版される。韓国語と日本語がともに。
歌人孫戸妍の言葉のとおり、詩は平和だ。そして愛だ。

 

短歌と俳句


短歌は五七五七七の三十一音節からなる一行詩に感情と思惟を込める定型詩であり、十

七音節からなる俳句とともに日本の代表的な詩形式だ。日本では天皇から一般人にいた

るまで普く愛誦し“心の故郷”と呼ばれ、国詩として遇されている。その起源は140

0年前の百済の滅亡以後日本に渡った百済からの渡来人であるというのが短歌研究家た

ちの言葉だ。日本の古の歌詞の宝庫である<万葉集>には4500余首に達する日本古代

の詩歌が載せられている。これを集大成した人物も百済人であり、その中には百済人と

思われる詩人たちの詩が多数収められている。
“昭和万葉集”には外国人として唯一孫戸妍の短歌5首が載せられた。

 

孫戸妍 歌人 

 


孫戸件歌人は八十年の生を閉じるまで、63年間に2000余首以上の珠玉のような短 

歌作品を残した。進明女高卒業後、最後の王妃である李芳子女史が奨学生として東京帝

国女史大学に送った。日本古典文学の大家にして詩聖の佐々木信綱に師事し、1944

年に処女歌集<孫戸妍歌集>を出版した。

1958年に日本最高の出版社である講談社から出した“第一無窮花”は、その後“第

五無窮花”まで続いた。「なぜ日本語で詩を書くのか」という非難が終戦後半世紀を越

えてまつわり続け深く葛藤したが、韓国短歌の唯一の後裔であるという自負心を持ち、

いつかは韓民族がその貴い韓国の資産に気づく日が来るだろうという信念で耐え続けた

孫戸妍の短歌の内容は“韓日両国と東アジアひいては人類の平和を願う内容”であり、

2005年に青瓦臺で行われた日韓首脳会談の外信記者会見にて、小泉純一郎首相(当

時)が孫戸妍の短歌を詠み、歌人の平和精神について語った。

生涯祖国にて短歌を書きながらも無名であった韓国でとは異なり、日本では孫戸妍の作

品はたいへん愛された。1998年明仁天皇が主催する“新年御前歌会始めの儀”に外

国人として初めて短歌の大家として招請され、1997年には青森の六ヶ所村に日本の

読者たちにより孫戸妍の愛の歌碑が建てられた。日韓文化交流増進に寄与した功労によ

り2000年と2002年に韓国と日本の政府からそれぞれ文化勲章を受けてもいる


 

 

 

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